- 日本獣医畜産大学(現 日本獣医生命科学大学)卒
- ロック大好き(特にローリングストーンズ)のちょい悪おやじ
- ゴルフは全く練習しない下手の横好き
- 最近全く潜っていないので自信のないダイビング
- 最近、陶芸に凝っていて月二回轆轤を回しています。
最近、新聞報道によると野外で野良猫3匹に餌やりをしていた女性が呼吸困難で緊急搬送され3日後に死亡。客痰と血液からコリネバクテリウム ウルセランス菌が検出されたと報じられています。
コリネバクテリウム ウルセランス感染症は人、犬、猫、牛のほか様々な動物で感染事例が確認されており、咽喉頭、肺、皮膚、乳腺などに様々な症状を呈する動物由来の感染症です。
人での感染事例の多くは犬、猫からの感染で、感染した動物はくしゃみや鼻汁などの風邪に似た症状や皮膚病を示すことがあり動物間で感染が拡大します。
飼育している犬やねこが咳、くしゃみ、鼻水などの風邪様症状、を示しているときは早めに獣医師の診察を受けてください。
また、こうした症状を示している犬、猫に触る場合は一緒に寝るなど過度な接触を避けて手袋やマスクをして触った後は手洗いなどを励行してください。
わが街 わが友
先日、久しぶりというか何年ぶりというか机の整理をしていたら引き出しの奥から新聞のスクラップした束が出てきた。なんだろうと見てみると2002年の東京新聞のスクラップ、私の高校時代からの悪友である高橋 伴明。今は映画監督として少しは名が知られてきたけれど学生時代は麻雀と酒の生活だったはず。
その高橋監督が東京新聞に連載した青春記だった。彼が高校卒業して優雅?に一人暮らしをしている私の白梅荘に転がり込んできた話が書いてあるので皆さんも読んでみてください。
ちなみにトオルというのが私です。
- わが街 わが友(1)
- 父親を高3に上がる前になくした私は68年卒業の夏、手に職、上京の二つを決め郷里、奈良を後にした。
目をつけた住処は中央線西荻窪駅から徒歩10分位にある、奈良時代の友人・トオルが借りていた四畳半に小さな流し付きの木造アパートである。2ブロック先の畑に白梅が咲くので?白梅荘といった。
契約違反の同居人ゆえ、家賃の三分の一を私が出すこととした。このあたりは私の控えめなところである。二段ベッド、電気炬燵、本棚、ファンシーケース(と言ったはずのビニール衣装箱)を置けば、もう入るものがない、そういえば押入れが無かったのだ。
遠縁のコネで、ある寿司屋に働くことになったが、年下の先輩にどやされ、いつまでも出前と洗物だけ、修行とは斯くあるべしと悟り顔をしていたら、同寿司屋経営するところのコロの入ってないおでん屋に配転されてしまった。
私は早々と板前への道をあきらめ、大学受験へとハンドルを切った。このあたりも私の控えめなところである。
トオルはそんな私の実情に対してまったく無関心であった。先輩の彼女の弟だという遠い遠い関係なのに、しかも他校生であったのに、柔道の対抗試合で私を投げたのに、私はトオルの進路相談にのってやり、獣医は、これからエエぞと闇の中に光を見せてやり、麻雀と酒を教えてやったのに、薄情なやつだ。
トオルはインスタントコーヒーをアメリカ流や、と薄めて飲みながら私に聞く。いつまで居てんねん、奈良に帰るんやろ。あほぬかせ、こうなったらとことん居ついたる。
駅前の洋風定食屋でお気に入りのメニューも見つけたし、白梅の咲くことを確かめねばならないし、ちょっと足を伸ばして吉祥寺に行けばジャズというものが聴けるというではないか。私、19歳、ニシオギの新人であった。
―映画 『俺たちに明日はない』 - わが街 わが友(2)
- 噎せる様な銀杏の季節に、この白梅荘に奈良から二人の居候が転がり込んできた。自分のことは棚に上げておくが、ウチダとコウチャンという出来損ないの浪人生である。
二人は家賃を払わなかった。そうこうしているうちに、トオルの同級生キノシタまでが居座るようになり四畳半に五人の十九歳が重なり合い臑毛絡ませて暮らしていくことと相成って・・・後にお世話になった野方署の雑居房でさえここまではと思われるおぞましいケシキではあった。
こんな生活で何を置いても危険なのは、離れた場所に住んでいるらしいとはいえ大家の目である。不法滞在が露見した日にゃ。。。主人であるトオルの基本的人権は守らねばならない。
私たちの警戒はまず汲み取り式の共同便所に向けられた。短期間に排泄物が異常に堆積されたら、きっと足がつきウンもつきる。大のほうは非常時以外トオルと私のみが使用し、あとのものは随時、公的機関に頼ることとした。家賃をはらうのはトオルと私であるから正しく道理にかなったサバキと言えよう。また小の方とて油断はできない。
私たちは中央線の高架下に捨ててあった火鉢を拾ってきて窓の外の草地にそれをしつらえた。部屋が一階であったことは好運と言わねばならない。溜め込んで溢れ出るままにしておいても同じ事のように思えるが、脚力がまだ通用する頃合を見計らってエイヤッと火鉢を蹴倒すのが私たちの作法であった。捨てられた火鉢にとって不本意なことであったかは考えたことが無い。やがて茗荷が芽を出したそうな。
人間の鼻はにおいに慣れるというが、そうでもないのがいるようで、誰かが季節外れの蚊取り線香を炊いていた。この白梅荘に白梅は植わっていないことを先回書いたが、銀杏の木が近くにあるわけでもなかった。
トオルを除く、私たち四人はニシオギの隠れ住人であった。
―映画「2001年宇宙の旅」 - わが街 わが友(3)
- 白梅荘五人組は安全な生活維持のため、まず共同便所使用規則を定めたのであったが、次は健全な生活維持のため食生活改善への努力工夫がテーマとして取り上げられた。出すのが先で入れるのが後になってしまったのは致し方なかったと思っている。
自分たちで材料を仕入れ調理すれば健康上も経済上も好ましいことは自明の理である。そして材料費を限りなくゼロに寄せたいのも人情の機微であろう。だからトオルの学校で牛の解剖実習のある日は正しい日なのである。トオルがバケツいっぱいの肉魂をぶら下げて帰ってくるからだ。但し、肉の良きところは上級生のお持ち帰りであって、トオルのは顎の鍛錬用という代物であった。また、当時ニシオギ周辺には畑がいっぱいあって、コウチャンはよく季節の野菜を抱えて戻ってきた。府中で白バイ警官に変装した犯人による三億円強奪事件というのがあったのだが、この犯人のモンタージュ写真がコウチャンに瓜二つであった。私はこのことを今まで誰にもしゃべったことは無い。コウチャンよ、もう時効になったでえ。
食材調達において私たちはチームプレーの冴えも発揮した。駅前のスーパーに行き、一人がぶら下げている番傘の中に吐露、タイ、ひらめ、あわび、かに、えび、松阪牛といった高級品を次々と放り込むのだ。たたんだ番傘の内側は綺麗にくりぬいてある。考案製造責任者は私奴である。キャベツ、白菜といったかさばる物はきちんとレジを通したことはささやかな良心のあらわれか。
雨の日の食卓は非合法に豊かで・・・・このことを本日、発露懺悔いたします。この年のスーパーの売り上げがデパートを抜いたとか、どうかお許しください。
こんなわけで私たちはひもじい思いをした記憶がまず無い。キット痛い目にあう。「あしたのジョー」にはなれないことを確認しあった私たちはニシオギの無法者だった。
―映画「神々の深き欲望」 - わが街 わが友(4)
- 四畳半五人暮らしでは、朝はいっせいに起床するという作法が必然となる。起きて四畳半寝て半畳であれば、全員が起きないと歩く空間が見つからないのだ。目覚まし時計は朝食係りも兼ねた目覚まし当番のかけるレコードであった。
当番は各々ご贔屓の曲を安物のポータブルプレーヤーから最大音響で流すのである。ビートルズ、ローリングストーンズ、ドアーズ、ピンキーとキラーズ、ピンクフロイド・・・
私は断固、クリームであった。
窓を開け順番待ちしながら件の火鉢に向けて放尿していくのだが、つい音楽にあわせて振ってしまうので的をはずす。歯を磨くのも大騒動で歯ブラシでリズムを取るものだから部屋に歯磨き粉が乱れ飛ぶ。大音響の中で頂くのは紅茶にトースト、サニーサイドアップあるいは納豆ご飯の卵ぶっかけ、時には気取って前夜の残りおじや。なんとも文化的な朝であった。
この当時、世間には大学紛争、ベトナム反戦といった厚い風が吹いていて私たちも何かしら心ざわつくままに大学の立て看を見物に行ったり新宿西口広場の反戦フォークの輪の中にいたりした。そんな街とは無縁であるかのようにニシオギには静かな坦々とした時間が流れていたように思う。そのことに苛立ったわけではないが、私たちは安酒を仕入れて世の中の動きや自分の有り様のことなどなど喧々諤々となる夜が多くなっていた。この時以上の、トオルのウチダのコウチャンのマジな顔を私は知らない。後に学生運動に呑み込まれていったのは一番無責任な発言を繰り返し、東大安田講堂落城を実家のコタツの中でみかんを頬張りながら観ていた私ひとりであった。
私はゲバルト、ノンポリ、とめてくれるなおっかさん、造反有理という言葉を覚えた。
なんとも文化的な夜であった。
私たちはニシオギの文化人だった。
―映画「卒業」 - わが街 わが友(5)
- 受験の季節が巡ってきた。
すでに東大はその年の入学試験中止を決定していたが、獣医大生のトオルとキノシタはもちろん、コウチャン、ウチダ、私の浪人組もそのことを嘆きはしない。節度ある受験生であった。誰一人して受験参考書に向かっている姿が思い出せないのはなぜだろう。そんなことは一度も無かったからだ、きっと。
わたしたち五人は暇さえあれば、いや、ヒマだらけだったのでしょっちゅう麻雀に興じていた。トオルの大学ノートは一冊、二冊と点数表で埋まっていった。勝負が始まると、際限なく続くのはアマチュアの悪い性である。家賃を払わない不逞な輩が三人いたからトオルと私は殊更にしつこく真剣であった。
夜中の二時ごろであったと思う。突然、部屋の扉が開かれ、そこに二階の住人が登山ナイフを手に立っていた。「おまえら、いい加減にしろよ」-こんな時、「わぁ!」と、のけぞったり「どうか命だけはご勘弁を!」と平伏すのが礼儀というものなのだが、私たちは極めて緩慢な動作で「すみません」の一言もなく振り返っただけであった。私たちの眼球はこの人よりも血走っていたのかもしれない。その所為か、ラス抜けで外れていたキノシタが夜食用にと昨日解剖した肉の塊にメスを入れている姿がおぞましかったのかわからないが、この人はそれ以上、何も言わず何のアクションも起こさずに帰っていった。幾度も我慢を重ねてきたのだろう、申し訳ないことであった。私たちは直ちに新ルールを設定した。
再び二階の住人がやってきた場合はラス抜けになっている者が刺される。このルールによって勝負はにわかに熱を帯び夜明けを迎えたのであった。コウチャンはそのまま目指す学校の受験に向かった。幸い誰も刺されることも無く、大家に密告されることも無かったが、トオルとキノシタはたくさんの単位を落とした。
私たちはニシオギの雑音だった。
―映画「真夜中のカウボーイ」 - わが街 わが友(6)
- 受験の季節が終おわった。グラフィックデザイナーをめざすウチダは原宿のデザインスクール、詩人になりたいコウチャンは何故か上野毛の美大に、目標を持たない私は高田馬場の私大に進むことになった。凄まじく単位を落としたトオルとキノシタも一応二回生と呼ばれることになるのだろう。
これを機におのおのが其の実情にあわせた場所に部屋を借りることになり、実際そのとおりになった。こうして私達「白梅荘」の不法住人は、二ブロック先の白梅が散った頃、晴れてニシオギの卒業生となったのだ。
転居して十日もたった頃だったろうか、一人残ったトオルが寂しい思いをしているだろうと新しい大学の話だけを手土産にさげて「白梅荘」を訪ねた。そこには当たり前のようにウチダ、コウチャン、キノシタが雁首をそろえていた。そしてトオルはげんなりと私を見上げた。
みんな、我が家、に帰らず、二三日前から以前と同じような生活が始まったというのである。この連るみ方はもう病気だ。久しぶりに私が顔を見せたということですき焼きの歓迎を受けた。食材をどのような手段で調達したかを私は問わなかった。そして当たり前のようにジャラジャラ、チー、ポンと卓を囲むことになる。入学早々ヘルメツトをかぶってしまった私は、全共闘運動と麻雀との相関関係に思いを巡らしていたためか最後まで調子が出なかった。この日から私もまたここからバリケードの中に通うことになる。病気がうつってしまったのだ。いつになったら私達は巣離れできるのだろう。
雄鶏が啼く。窓の外を桜の花びらが風に流れていく。雄鶏の声はトオルのやけくその、散っていく桜はトオルの消え入りたい、そんな気分のようにも感じられた。
私達は、ニシオギの雛鳥だった。
-映画 「冒険者たち」 - わが街 わが友(7)
- 大学生になっても五人の共同生活は続いてしまうことになったのだが、そんな中で一番奇妙な空気が流れるのは誰かが女友達を連れてきたときのようである。何が悲しくてこんなところにつれてきてしまうのだろう。そりゃあ、どんな娘だって掃溜めの鶴にみえてしまうんで・・・男としては自尊心がくすぐられたりもするのだが、一方でほかの男たちがあらぬ方向を見ながら頭の中で彼女の何を想像しているのか知っている。そのことは自尊心を傷つけないのだろうか。
また、こういうときに限り「ちゃってさ」弁を無理して使う。それに対抗して私たちは殊更にザ・関西になる。大人になれないでいた私たちであった。
それでも初対面の儀式が一通り終わった頃にはみんな出かけてしまう。一年前から入っていた予定を思い出したからだ。(コーユー時ハ彼ト彼女ヲ二人ニシテアゲルコトガ大人デアッテ友情トイウヤツダト僕ラハ思ッテイタ)
一年前からの用向きは大概二時間ぐらいで足りるようで、みんな申し合わせたように部屋に戻ってくる。そして女友達が帰った後にニヤリと笑いかけるのだった。
信じてもらえないかもしれないが私たちは毎日のように連れ立って銭湯に通う清潔人間だった。こんなとき、女友達を連れてきたヤツは頑なにタオルで前を隠すようである。
「いつか風呂付の部屋に住んでやる・・待ってろよ」-「竜二」の金子正次だったらこう言ったのだろうか。コレは信じてよい話だが私たちは隣の女風呂にカルメン・マキがよく来ていたことを知っている。私たちより先にカルメン・マキが風呂付の部屋に移り住んだことは間違いないが、今は小さな健康ランドになったというあの銭湯の番台に座っていたおやじが今もってうらやましい。トオルもコウチャンもウチダもキノシタもきっとそう思っている。
私たちはニシオギの時には母のない子のようだった。
―映画「私が棄てた女」 - わが街 わが友(8)
- 人生にはハプニングが付き物のようであるが、69年秋、私はある内ゲバ事件で逮捕され、5つぐらいの罪状を抱えて起訴された。ハプニングではなかった、早晩の必然である。
着いたところは府中刑務所。当時は拘置所の収容能力が限界に達していたようである。
光栄なことに独房に住むことができ、警察の雑居房から比べれば、たいそう静かな暮らしが始まった。ただし、用便中に扉の高い位置にある小窓から覗かれ眼と眼が合うときなどは心静かにいられない。扉の下部にある小窓(確かシキテンと言ったと思う)は、食事や物品購入の受け渡しに使用する。食後の皿に買い入れた饅頭や果物を載せて戻すと次の日からシャリも菜も盛りが倍になった。社会の仕組みは内も外も変わらないようだ。
読書、手紙、折り紙とチリ紙細工(これは没収され少し教育的指導を受ける)球の体操、入浴などで一日は終わる。
ニシオギを代表してトオルが面会に来た。「誰も心配してへんから、ゆっくりしてこいや」
トオルはへらへら笑いながらそう言った。頭がブチ切れそうになったが、私もへらへらと上等の笑いを返した。
みんなの期待に添えず春には保釈が決まった。太りすぎてジーパンのチャックが上がらないのをセーターで隠し、私は塀を見上げる。その塀は今パステルカラーの化粧がなされている。内側はどうなのだろう。数日後、よど号が北朝鮮に向けて飛び立った。
下宿の荷物はすべてニシオギの「白梅荘」に引き取ってもらってあるので私はニシオギに帰るしかない。骨太長身のトオルのズボンにはきかえ、裾を折り返して久しぶりのビールを飲んだ。「うめぇー!」と叫ぶはずだったがそんなことはなかった。映画はうそをつく。
だけどその嘘が大事なのだ。ニシオギに帰る・・・帰ると言うほどニシオギは「わが街」になったのだろうか・・・私はニシオギの住人になった、とりあえず。
―映画「明日に向かって撃て」 - わが街 わが友(9)
- 私たち関西五人組にも「白梅荘」四畳半から巣離れする日がやってきた。"同棲時代"という時代を私たちもまた生きていたのだ。別れの儀式はなかった。どうせまた、という気分がみんなの中にあったからに違いない。
現在、私以外の四人は郷里にもどっていて、トオルとキノシタは順当に犬猫病院の先生におさまり、詩人を志したコウチャンは画廊を経営し、ウチダはグラフィックデザイナーから転職して喫茶店のオヤジである。トオル、コウチャン、ウチダの三人は共同で麻雀部屋を借りている。言わんこっちゃない。
私がニシオギから旅立った先は、気合いが足らんと言われればそのとおり、荻窪という街だった。しかし束の間の荻窪人から再びニシオギに戻ることになる。当時、私にはすでに結納を交わした相手が郷里、奈良におり、東京で一緒に暮らす場所を決めるにあたり、婚約者の姉夫婦が入居する予定のマンションが何かとよかろうということになって、そこがたまたまニシオギだったのである。2DKのついに風呂付で、冷蔵庫も買うわテレビも買うわ電話まで引いてしまうという初めてづくしであった。双方の親が少々無理をしたのだ。
四階の私たちの部屋の隣はお姉さんの旦那(A)の会社の同僚(B)夫婦、その階下に姉つまりA夫婦、その隣にこれまたAの同僚(C)夫婦がヨーイドンで住み始めた。
記号にしてもややこしいが、要するに、A、B、Cさんたちは、ある広告代理店の、それぞれデザイナー、営業、イラストレーターであった。どうも私は望むわけではないのに連む流れに放り込まれるようだ。それともニシオギは連む街なのだろうか。
そんなわけで、もう少し私のニシオギ物語は続く。四所帯が四角形に暮らすそのマンションは駅のホームから大声で呼べば「ハーイ」とベランダから顔を出しそうな、そんな位置に建っていた。私たちはニシオギの「新婚さん」だった。
―映画「ある愛の詩」 - わが街 わが友(10)
- 上下左右の四所帯生活は畑違いのウチは別として、あとの三所帯は同じ会社の同僚なわけで、これでは寮と変わらず、トレンディーな広告屋さんにしては不思議な感性だなと思う。
しかも、旨い焼鳥屋が見つかった。蕎麦で日本酒てえのも粋だねえ、きょうは鍋だから、ゲームが始まるよ・・・と連日のように全員集合がかかるのだ。仲好し子好しである。
「白梅荘」出身者としては連帯を求めて孤立を恐れるタイプであったのだが、いつしか単独行動をとるようになり、別に家のかぎが増え、ウチに寄り付かなくなっていった。
婚約者が自殺を図ったのもむべなるかな。幸いにも未遂に終わったが、修復の道は閉ざされた。私は紙袋一つぶら下げて、この連帯マンションを後にした。
四コマ漫画ならその背中に「不実」という字が張り付くのだろう。
後に「白梅荘」で共同生活したウチダの情報で、知ったことだが、残った三所帯も次々と別れてしまったそうである。別れることまで仲良くやることはないじゃないかと文句の一つもつけたかったが私には資格がない。ウチ達はここを「離婚マンション」と呼んでいる。
現在、国立に住んでいる私だが、中央線の車窓に「離婚マンション」が姿を見せるたびに胸の奥が疼いてくる。あの部屋のテレビで連合赤軍事件を知った・・・あの部屋のふろ場であの子は手首を切った・・・あの部屋の食卓で書き上げたシナリオでひとりの映画監督がデビューした・・・もう、三十年も前の話だ。
―映画 「ゴッドファーザー」
長々と極私的ニシオギ物語を続けてきたが、登場してくださった人々のプライバシーの侵害があったり、記憶が曖昧で事実と異なっていたりするかもしれない。そのことをここでお詫びしておきたい。まばゆく輝くような青春ではなかったけれど、ニシオギはいつだって胸のポケットから取り出せる。
大学時代(西荻窪の貧乏学生時代)大変お世話になったイラストレイター・空山 基(ソニーのAIBOのデザイン、ロックバンド・エアロ スミスのCDジャケットのデザインなど)に開院時無理を言って奈良まできてもらい描いてもらったものです。興味ある人はインターネットで「SORAYAMA HAJIME」を検索してみてください。
谷野獣医科医院(旧医院)
- 1977年(昭和52年)開院
- 1999年(平成11年)現在の医院に新築